復讐するは○○にあり

 

作・よしおか

 

 崖の下より吹き上げる強い風に乗って潮のしぶきが、崖の上まで舞い上がっていた。

 女は、履いていた靴を揃えると、それを重石にして、手紙を岩の上に置いた。最後の手紙を、この荒々しい風に吹き飛ばされないようにという気持ちからだった。

 女は、向日葵柄のマタニティの上からふくらんだおなかを優しく撫でた。

 「ごめんね。あなたに命を与えておいて、陽の光や、楽しい思い出を作る時間も与えずにあなたの命を奪ってしまうママを恨んでね。決して、パパを恨んだりしないでね。」

 女は崖の端へと歩いて行った。そこは、断崖絶壁で、落ちたら最後、到底助かりそうもなかった。だが彼女はその地獄への一歩を踏み出そうとしていた。

 とそのとき、女のおなかの中でなにかが動いた。彼女の歩みは止まった。

 「あ、赤ちゃん。ごめんなさい。ママを許して。あなたと死のうとしたママを。ごめんなさい。」

 そう呟くと、女は、涙を流し、そこにうずくまってしまった。

 「やはりそうか。死ぬなんて嘘か。」

 「あ、あなた。」

 「お前のこれ見よがしのメールできてみれば、とんだ茶番だな。」

 「お願い。産ませて。この子を。あなたの子をわたしに抱かせて。」

 「そんなことできるか。これから大舞台に出る俺に、この子は邪魔なのだ。それに、お前もだ。」

 「決して、あなたの前には現れませんから、お願い。」

 女は、顔を崩して泣きながら、男にすがり付いた。だが、男は薄笑いを浮かべながら、女を立たすと、崖に下へと突き落とした。

 「お前は予定通りに死ぬのだ。あばよ。その子といっしょに地獄で暮らしな。」

 風にあおられながら女は崖下へと落ちていった。そして、岩場に叩きつけられる荒波にさらわれたのだろうか、すぐに、その姿は波間に消えた。

 

 「先輩、手がかり無しですね。自殺なのですからこの辺で打ち切りましょうよ。」

 「だめだ。仏も上がってないし、死ぬところを見たものもいない。それに、妊婦がそう簡単に死ぬか。」

 「そりゃ死にますよ。妊婦も人間ですからね。」

 「あと一軒だ。それでおしまいにする。課長にも今日で打ち切るように言われているからな。」

 「は〜い。」

 二人の刑事は、手入れの行き届いた古い洋館の門の前に立った。

 「人浦か。何処かで聞いたような名前だな。」

 「そんなことより、早く話を聞いて署に帰りましょう。」

 「わかったよ。」

 先輩の刑事は、呼び鈴を押した。

 「は〜い。」

 若い女性の声で返事が返ってきた。玄関のドアが開き、肩までたらした長い金髪の美女が出てきた。まだ少女といっても通るくらい若々しかった。

 「あの、この家のお嬢さんですか。」

 後輩の刑事が勇んで聞いた。

 「いえ、この家の主の妻です。」

 「そうですか。しょぼん。」

 後輩の刑事はうなだれてしまった。

 「職務中だぞ。すみません奥さん。わたくし達、この辺の管轄の、警察署の者です。」

そう言うと、二人は警察手帳と名刺を差し出した。

「一ヶ月ほど前に、この先の崖から投身自殺した人がいるのですがご存知ありませんか。」

 「いえ、わたくしは、2週間ほど前まで長患いで床に伏せっていましたので・・・。主人なら何か知っているかも知れませんわ。あなた、警察の方が、ちょっとお聞きしたい事があるそうよ。」

 「なんだい春奈。」

 ピンクのチャイルド・ドレスを着たかわいい女の子を胸に抱いた長身で痩せたちょび髭の目付きの悪い中年男が出てきた。

 「どうしたんだい春奈。」

 「警察の方が、この先の崖から投身自殺した方のことでお聞きになりたいそうよ。」

 「ちょっと秋奈を頼むよ。」

 そう言って、むずかる女の子を妻に渡すと、男は二人の刑事を睨んだ。

 「わたしが、当家の主人。人浦狂児ですが、なにか。」

 「あの、奥さんのおとうさんで・・・」

 「いえ、主人です。ちなみにこの子は二人の愛の結晶です。」

 そう言いきる狂児に、後輩の刑事は手錠をかけた。

 「婦女監禁、及び強姦の罪で逮捕する。」

 「あのね〜〜。」

 「おい、ちょっとまて。」

 先輩刑事は、後輩の軽率な行動をたしなめた。

 「偽証の罪を加えろ。こんな若くて綺麗な奥さんをもらう為には、かなりの偽証行為をしているはずだ。」

 真面目な顔をしながら、先輩刑事は後輩に言った。

 「何をする。ワシは、無実だ。」

 「誰でも、そういうのだ。署で詳しく聞いてやるよ。」

 「さあ、来い。」

 本当に主人を連れて行きそうな二人の刑事に春奈は詰め寄った。

 「主人に何をなさるのですか。警察を呼びますよ。」

 「警察は我々です。奥さんはこいつに騙されているのです。」

 「いえ、主人はいいひとです。わたくしは、主人を信じていますし、愛しています。」

 「は、はるな〜〜〜。」

 狂児は、顔をくしゃくしゃにして、春奈の胸で泣いた。春奈はそんな狂児の頭を優しくなでた。

 そんな二人を見て、後輩の刑事は残念そうに狂児の手錠を外した。

 「すみませんでした。てっきり犯罪かと思いまして。」

 「主人はこんな怖い顔をしていますが、本当は優しい人なのです。」

 「はるな〜〜。」

 「もう大丈夫よ。あなた。」

 仲のいい二人を見ていて刑事達は馬鹿らしくなって来た。

 「おっと、本題を忘れるところでした。ご主人。一ヶ月ほど前の事ですが、この先の崖から投身自殺した人のことを何か知りませんか。」

 「知らん。自殺した女の事など知らん。」

 狂児の返事に後輩の刑事が身を乗り出したが、先輩刑事がそれを押し留め、礼を言うと帰っていった。

 「先輩。あいつは何か知っていますよ。自殺者が女だとは一言もいっていないのに。」

 「そうだ、だが、今はその時期ではない。もう少し様子を見る事にしよう。とにかく、帰って課長に報告だ。」

 二人は、乗ってきた覆面パトカーに乗り込むと、署に向かって車を走らせた。

 

 信彦は上機嫌だった。厄介者だった明子は死に、それといっしょに子供の始末も出来たからだ。

 「厄介者は全て消えた。俺は自由だ。あとは、美沙との結婚式を待つだけだ。」

 信彦はその美しい顔を鏡に映して微笑んだ。

 神宮寺美沙。神宮寺コンツェルン総裁、神宮寺昭恵の孫娘で、信彦の勤める神宮寺商事の社長、神宮寺正友の養女だった。一人息子が急死した正友が、4年前に養女にしたのだが、祖母の昭恵の、美沙のかわいがりようは、実の孫以上だった。

美沙は飛び切りの美人で、性格もよかった。超一流大学を出た信彦は、向上心が強く、とにかくハイソサエティを目指していた。そして、或るパーティで美沙と知り合い(実はこれは信彦の計略だった)、美沙と何とか婚約までこぎつけた。だが、精の捌け口と資金の供給源にしていた明子の妊娠で(注意はしていたのだが、酔っぱらった時に勢いで何もつけずにやってしまった。)危うくなったが、明子は消えたし、お腹の子もいっしょにいなくなった。信彦にとってはバンバンザイだった。

 「明日は美沙と式場を見に行く事になっているし、そのあとは、グフフフフ。さて今日は、早めに寝て、鋭気を養うか。」

 信彦は、シャワーを浴びると、ベッドに横たわった。いつになく、強い眠気が襲ってきて、彼は、深い眠りへと落ちていった。

 「ほぎゃ〜。ほぎゃ〜。ほぎゃ〜。」

 どこからともなく、赤ん坊の泣く声が聞こえてきた。このマンションは、防音効果が完璧で、外の音はおろか周囲の音さえも聞こえないはずなのにどこからともなく聞こえてくる赤ん坊の声。

 信彦は、気味悪くなって、その声の出所を探した。だが、その声は、すぐに消えた。彼は、眠れぬまま、朝を迎える事になった。

 翌朝、寝不足のまま、彼は美沙と式場となるホテルに行き、式の打ち合わせを済ますと、そのホテルの最上階にあるレストランで、休息を取った。

 美沙はミルクティ。信彦は、なぜかレモンスカッシュを頼んだ。

 「信彦さん、すっぱいものはダメではありませんでしたか?」

 「そうなのですが、なぜか今日はどうしても欲しくなって。飲んでみるとけっこうおいしいですね。」

 信彦は、レモンスカッシュを一気に飲み干した。すっぱいものは見るだけでもダメなはずなのになぜ?という思いがあったが、なぜか身体が求めるままに、レモンスカッシュのお代わりを頼んでいた。

 そのあと、美沙のウェディングドレスの仮縫いに付き合った。まだ、仮縫いだが、純白のウェディングドレス姿の美沙は、普段の数倍も美しかった。その美沙の姿を見ていた信彦は、そのドレスをもの欲しそうに触り始めた。その眼は、ドレスにあこがれる女の眼だった。

 そのあと、行きつけのレストランで昼食をとった。

 「信彦さん、どうかなさいましたの。さっきからおかしいですわよ。わたくしのウェディングドレスを着たそうでしたわよ。」

 美沙はおかしそうに笑った。だが、信彦には笑い事ではなかった。美沙は冗談のつもりで言ったのだろうが、それは本当の事だった。

 『どうしたのだ。今日の俺は何かおかしいぞ。』

 楽しいはずの美沙とのひと時も気が乗らなかった。

 「もう、信彦さんたらどうなされましたの。なんだが、ご気分がお悪いようですわ。お顔の色もお悪いし。今日はここでお別れいたしましょうか。」

 「いや、大丈夫ですよ。気になさらないでください。」

 信彦は、美沙に心配をかけまいとして元気そうに言った。ワゴンで運ばれてきたワインをグラスに注ぎ、確かめるように香りをかいだ時、信彦は突然胸焼けがして、嘔吐した。そして、そのまま信彦は気を失った。

 

「先輩、仏が出ました。」

「ほとけ?」

 「いやだなあ。この間の投身自殺者ですよ。いま、検死解剖に回っています。」

 「ということは、TS大法医学教室だな。ま、まさか、あそこのJ・マツダ教授ではないだろうな。」

 「え、そのまさかですが・・・」

 「あの教授は、検死の際に異常なことがあると異様に萌えるのだ。異常がないことを祈るよ。」

 「はあ?」

 後輩の刑事は、先輩の心配の訳がわからなかったが、それは、すぐに思い知らされた。

 二人は、TS大学医学部の奥にある法医学教室に顔を出した。そこの解剖室には嬉々として、仏にメスを入れまくっている少し小太りでロマンスグレーの白衣の男性がいた。彼は、目にも止まらぬ速さでメスを操り、身体を切り刻んでいた。外観の検証は終わっていた。だが、それほどメスを入れなければいけないのかと思わせるほどのカッティングとメス裁きの速さ、切り口のきれいさは神業だった。ただ、どうやっているのかは判らなかったが、メスを入れ、検証が終わったところは、ほとんど目立たないように処理がしてあった。だから、その遺体の切り開かれたところはごくわずかだった。だが、それも次の瞬間には消えて、別のところは開いていた。

 二人は声もかけられず、教授の検死が終わるのをじっと待った。

 「面白い。実に面白い。これほどの仏は初めてだ。」

 先輩の刑事は、落胆し、顔を伏せた。これからのことを思うと疲れが重く圧し掛かってきた。

 「ん?おお君か。ちょうどよかった。これを見たまえ。」

 そう言うと、教授は、仏の腹部をつまんで持ち上げだ。それは空気の抜けた風船のようにたるんでいた。

 「この仏は、急激なダイエットでもしていたのでしょうか。それ、おなかの皮がたるんでいるのでしょう。」 

 「ふむ、ダイエットか。妥当な答えかもしれんな。」

 そう答えながら、教授は、仏の腹部の皮を切り裂いて、中を見やすいように皮を両側に引っ張った。そこには、血の気のなくなった腹部があった。これだけは、いくら見てもそうなれるものではなかった。

 後輩の刑事は、床に伏せって、嘔吐した。先輩の方は、立場上何とかこらえた。

 「床を汚すなよ。新人か。」

 「は、はい。」

 こみ上げてくるものを押えながらも何とか答えた。

 「ふむ。ところで君はこれを見て何か気づいたかね。」

 「いえ、解剖学は得意ではないので、ただ。」

 「ただ何かね。」

 「ただ、以前。女性連続切り裂き魔の事件を担当した時に、先生に見せてもらった女性たちとはどことなく違うような気がしまして・・・」

 「ふむ。合格とまでは行かないが、まあまあの答えだな。おいこら、そんなところにもどすな。そこにあるバケツに出せ。それと、その汚したところはあとで綺麗にしておけよ。」

 たまらずにもどしてしまった後輩の刑事に教授の叱咤が飛んだ。

 「この仏にはなあ。子宮がないのだ。」

 「子宮?それでは、この仏は男?」

 「そう短絡的に物事を運ぶな。わたしは子宮がないといっただけで、男だとは言ってはいない。この仏は、間違いなく女性だ。他の女性器は確かにある。それに、妊娠していた兆候もある。だが、胎児がいたはずの子宮が消えているのだ。」

 「子宮だけ消えた。それでは、誰かが胎児ごと子宮を取ったと?」

 「うむ〜。それとも違う。この仏の身体には、内臓破裂や打撲などの治療を施した痕はあるが、子宮を取り除いた形跡はないのだ。それに・・・」

 「それに?」

 「ここだ。」

 教授は、仏の頭部に立つと、刑事を招いた。

 「この頭部の傷だが、落下した時に損傷し、そこから、魚や波によって、脳が損失したように見えるが、それならば、眼球や他の組織が何の疵もなく残っているのがおかしいし、神経の切断面が、メスのようなもので切ったように綺麗なのがわからん。」

 「それでは誰かが、この仏の脳を取り出したと?」

 「なぜそんな事をする。それがわからん。」

 「それは、この仏が美人だからだとか。」

 さっきまで、激しい嘔吐でのた打ち回っていた若い刑事が、解剖台に手をかけ、のび出して言った。

 確かに、この仏は生前、かなりの美人だったようだが、その遺体から脳を取り出すとは、あまりにも猟奇すぎる。教授と先輩の刑事は、その問題に頭を悩ました。

 「ひょっとして、脳移植につかったりして・・・ありえませんね。ごめんなさい。」

 二人に睨まれて、若い刑事は、床の上に小さくなった。

 「とにかくこの謎を解く必要がある。君は、ワシに何かわかったら逐一報告する事。わかったな。」

 教授の目は、新しいおもちゃを与えられた子供のように輝いていた。危惧した通りになり、刑事は、胃の痛みを感じ始めていた。

 

 信彦は先日からの体調の変化に戸惑っていた。心なしか髭は薄くなり、筋肉質だった胸は少し腫れ、妙に張った感じがしていた。その上お腹が膨れ始め、いままで以上にすっぱいものが欲しくなった。

 「どうしたというのだ。この間から、赤ん坊の泣き声は頭から離れないし、身体は妙に重くなっていくし。どうしたらいいのだ。」

 医者にかかるという方法もあるのだが、どうしてもそこまでする気にはなれない。それに、ここのところ、美沙と結婚式の準備や、仕事の詰めで忙しかったので、疲れだろうと考え、思い切って3〜4日、休みを取る事にした。だが、この事は前兆でしかなかった・・・

 

 捜査課の机の上に置いた写真を見つめながら先輩の刑事は考え込んでいた。それは、あの投身自殺した仏の写真なのだが、何処かで見た気がしていた。商売柄、一度見た人の顔を覚えているのは当たり前なのだが、どうしても思い出せなかった。それがなぜかはわからないが、この写真が、ここのところ彼の頭から離れないでいた。

 「先輩。またその写真を見ているのですか。わたしが検索しましょうか。」

 先輩刑事のプライドで無理にでも思い出そうとしたのだがどうしても思い出せず、彼は後輩にその検索を任せた。彼は、先輩から預かった写真をスキャナーに読み込むと、パソコンにインプットした。そして、彼が検索を始めると同時に、先輩の刑事が叫んだ。

 「あ、あの女は・・・。堂本信彦のファイルを出してくれ。」

 「でも、先輩。」

 「いいから。彼女は、後藤・・・」

 「明子。半年前の帝銀10億円横領の容疑者で、現在逃亡中。彼女の容疑を確定させる証言をしたのが、堂本信彦。彼女の同僚で、彼女と交際があったらしいが不明。現在、神宮寺コンツェルン総裁の孫娘で、神宮寺商事の社長令嬢の神宮寺美沙嬢と婚約中。来月には結婚の予定、以上です。」

 「そ、そうか。ありがとう。」

 彼が思い出した以上のことを後輩が説明してくれたので彼の立場はなくなった。あの事件は容疑者の失踪で、真相が判明せずにお宮入りした。だが、彼はこの事件の裏に信彦の影を見ていたのだ。

 真面目で質素な暮らしをしていた女性が犯した大金横領という犯罪。だが、その事件の最中でも彼女の生活には変化がなかった。一方、信彦の生活は派手になっている。だが、ついに彼女と信彦の関係は立証できずにいた。

 そして、彼女の遺体発見で真相は闇の中へと消えていった。2度と浮かび上がるはずのない深淵の中に・・・

 

 休暇を取った翌日から信彦は人前に姿を現さなかった。出前を取っても玄関に代金が置かれており、奥から決して出てこようとせず、休日の終わった翌日も部屋から出てこようとはしなかった。

 「こんな姿。どうしたらいいのだ。」

 鏡に映るその姿は、この間までの彼の姿とはかなり違っている。

 胸は、女性のように膨らみ、張った痛みとともに乳が出て、腹は大きく膨らみ、尻は、横に広がり、安定した形になっていた。その体形はまさに、女性、いや妊婦そのものだった。

 食生活も変わり、いつもの1.5倍から2倍は食するようになり、タバコや酒などの刺激物は身体が寄せ付けないようになった。ヘビースモーカーだった彼が、まったくタバコを吸えなくなったのだ。

 さらに、色黒だった彼の肌は白く滑らかになり、ごつごつとしていた体形も丸みを帯びてきていた。そして、体形に変化とともに、あの赤ん坊の声がはっきりと聞こえるようになり、彼の精神状態は、極限にまで追い詰められていた。

 「どうしたというのだ。これでは、まるで妊婦じゃないか。こんな姿では表には出られないし、最近声までおかしいから、どこにも電話も掛けられない。」

 そう、彼の声も変っていた。ただ、いままでと変らないのは、あそこだけだ。それ以外は、女性化、いや、妊婦化していた。ズボンはおろか、パンツもはけなくなった彼は、シャツの上から、Tシャツを羽織っていた。

 彼のお腹の中では絶えず何か蠢き。彼は、この急激な身体の変化になすすべもなく、正気を失いつつあった。

 

 「先輩。やっと見つけましたよ。堂本と後藤の関係を示す証拠が。彼女の母親が、彼女の遺体を確認して、娘の敵を取ってくださいと、堂本が後藤明子宛に送ったメールのバックアップを見せてくれました。」

 「今まで、なぜそれを出さなかったのだ。」

 「何処かで生きているだろう娘の好きな人に迷惑を掛けたくなかったそうです。でも、遺体を見て考えが変ったようです。あの事件の大体のところも聞いていたようですね。」

 「そうか、それでは、そのメールを元に裏を取り、堂本のところに行くぞ。」

 「了解。」

 彼らは、そのメールをもとに、堂本と後藤が交際していた事を確信すると、堂本の住むマンションに向かった。

 「先輩。堂本は、最近顔を見せていないようですが、高飛びしたのではないですかね。」

 「いや、それはしていないだろう。神宮寺美沙との結婚を控えているのだ。それに二人の中がばれるとも思ってないはずだ。」

 「それではなぜ?」

 「わからない。とにかく中に入ってみないことには。おねがいします。」

 信彦のマンションは中からカギが掛かり、呼んでも返事がなかった。そこで信彦の部屋を管理人に開けてもらう事にした。死んでいる可能性もあるということで、緊急処置として、礼状無しで、特別に開けてもらった。

 部屋のカギが開き、ドアを開けると中からは甘酸っぱい匂いが漂ってきた。さらに中に入ると、Tシャツを羽織った信彦が、大きく張ったお腹を優しく見つめながら、やさしく摩りながら子守唄を歌っていた。その声はまるで女の声だった。彼の顔を覗き込んだ先輩の刑事は、後輩と管理人に顔を向けると、静かに首を横に振った。彼の目から、正気は失われていた。

 

 「うむ。おかしなこともあるものだ。」

 「先生。堂本はどうでした。」

 マツダ教授は首をかしげながらつぶやいた。そして、刑事の質問など耳に入っていないかのようだ。

 「こんなことは考えられないのだが。」

 「センセイ。」

 「うるさい、いま考え事をしているのだ。黙っていろ。」

 「でも、我々も、堂本のことを知る権利があるのです。」

 「まったくうるさい奴だな。それでは教えてやる。奴は想像妊娠をしている。」

 「男がですか?」

 「男がですか?」

 二人に刑事はお互いの顔を見合わせていった。

 「そうだ。そして、胎児がいたらしい形跡まである。」

 「いたらしい?」

 「今は消えておる。まったく、人体の神秘だ。」

 「想像妊娠?男の堂本が・・・」

 刑事は、訳がわからなくなってしまった。そんなことがありえるのだろうか。

 「おうそうだ。この間言っていた人浦狂児だが、医療全般の天才で、特に脳外科に精通しておったが、異常なまでに脳移植にこだわり、変人扱いされて学会を追放になっておる。その上、数年前に奥さんを亡くして、さらに、おかしくなったという話だ。」

 「奥さんが亡くなっている?」

 「そうだ。若くて綺麗な奥さんだったらしいのう。何でも20歳以上は離れておったのではないかな。金髪でハーフか何かだったそうだ。」

 「そんな。それでは、わたし達があったあのひとは・・・・。おい、行くぞ。」

 「どこへですか。」

 「人浦狂児のところへだ。奴は後藤の事で何か知っている。」

 「先輩の勘ですか。」

 「そうだ。うだうだしていると置いて行くぞ。」

 「まってくださいよ〜。」

 二人に刑事は、外へ飛び出していった。

 

 後藤明子の葬儀がしめやかに行われていた。あまり目立たない性格だったためか、葬儀の参列者の影はあまりなく。一人残され、打ちひしがれた老母の姿が痛ましかった。だが、そんな葬儀の様子を物陰から覗いている者がいた。

 「お、おかあさん。」

 それは、出るに出られない明子の変わり果てた姿だった。彼女は物陰から老いて消沈した母に物陰から詫びる事しか出来なかった。

 明子が後ろ髪を惹かれるおもいで、その場を立ち去ろうとした時、彼女の目の前に二つの影が現れた。大きな影とそれに抱かれた小さな影。それは、明子が決して会ってはならない影だった。

 「春奈。何処かに行くのか。」

 明子は何も答えなかった。

 「春奈。お前は怒っているのだろう。自殺したお前を無理矢理生き返らせ、あまつさえ、記憶喪失のお前に見も知らぬ男の妻と幼子の母の役を押し付けた男に・・・」

 「ママ。ママ。」

 男に抱かれた幼児は、抱く父の腕の中で母の方にその小さな手を伸ばしていた。

 「お前の手紙は見た。だから、戻ってくれとは言わぬ。だが、この子に最後のお別れを言ってくれないか。こんなことが頼める立場ではない事は十分に理解している。だが、この子のために頼む。」

 胸に擁いていた秋奈を降ろすと、狂児は深深と頭を下げた、そんな父を見て秋奈もその意味も知らず幼い頭を下げた。

 プライドが高く、決して人に頭など下げる事のない男の、生涯に二度とない姿だった。いや、いまの彼なら土下座さえいとわなかっただろう。

 「ごめんなさい。あなた。」

 「やはりだめか。」

 力なく、彼は母を恋しがる娘を抱いて立ち去ろうとした時、彼女は叫んだ。

 「違うの。謝らなければいけないのは、わたしの方なの。わたしは、記憶を失ってなどいなかったの。今までのわたしを忘れたくて、記憶を失ったフリをしていただけなの。助ける事など不可能なわたしの為に、この大事な身体を与えてくれて、そのうえ治療不可能なほどの損傷を受けたわたしの身体を、寝食を忘れて直してくれようとしたあなたを騙していたの。そんなわたしが秋奈ちゃんのママにはなれないわ。それに・・」

 「それに?」

 「わたしは、大事な子を死なせてしまった。その子がわたしの幸せを許してはくれないわ。」

 「そんなことは・・・」

 「あるわ。その子はまた、わたしの身体に戻ってきたのですもの。」

 スッと背を伸ばした春奈(明子)のそのお腹は大きく膨らんでいた。

 「3日前から膨らみだしたの。わたしが自殺した時と同じ大きさのお腹になったわ。あの子が、わたしに罪を償わせる為に戻ってきたのよ。」

 「それは違う。それは違うよ、春奈。その子は、お前の元に戻ってきたかったのだ。幸せになったお前と暮らしたかったのだ。なぜお前が助かったと思う。それはその子のおかげなのだぞ。」

 狂児は、ぽつりぽつりとその不思議な出来事を語り始めた。

 「あれは、わたしが、海岸を散歩していた時の事だ。どこからともなく赤ん坊の声が聞こえてきた。ワシは周りを見回したが人気はまったくなかった。確かに、あの海岸はめったに人などはいないが、ワシは声のするほうへと歩いて行った。そして、岩場に打ち上げられ息絶えていたお前を見つけた。ワシは急いで、家に運び、応急処置をした。だが、お前が擁いていた胎児をそのままにしていたらお前は確実に危なかった。ワシは心を鬼にして呟いた。『お前の母を助けるためには、お前を犠牲にしなければならない。お前も、母も助ける事は出来ない。不甲斐ない医者だが許してくれ。』そう呟くと、ワシはメスを手にとった。そして、お前のお腹にメスをいれようとした瞬間。頭の中で声がした。『先生。ママをお願い。わたしは消えるから、ママをお願い。』その声とともにお前の身体から胎児は消えたのだ。お前の脳を春奈の身体に移し、お前の体を治療した。あとはお前も知ってのとおりだ。」

 「そ、そんな。この子が、わたしのために・・・この子を殺そうとしたわたしのために・・・」

 春奈はお腹を優しく抱きながらその場に泣き崩れた。狂児はそんな春奈を後ろから優しく抱きしめた。

 「お前が望むなら、離婚しよう。お前は自由にその子と生きるがいい。ワシはもう二度とお前の前には現れないよ。」

 そう言うと、狂児は、立たせていた秋奈を抱き上げて、その場を立ち去ろうとした。だが、動けなかった。泣きじゃくる春奈が、狂児を抱きとめていた。

 「ごめんなさい、あなた。ごめんなさい。」

 泣きながら謝る春奈の頭を狂児はやさしく撫で、春奈に秋奈を抱かせた。

 「帰ろうか春奈。秋奈。お前に妹か弟ができるぞ。ママにありがとうを言おうな。」

 「ママありがとう。」

 秋奈はその呂律がまだ回らない口で春奈にお礼を言った。

 「ありがとうあなた。ありがとう秋奈ちゃん。」

 「なにを言っている。家族じゃないか。さあ、新しい我が子のためにも頑張るぞ。」

 「無理をなさらないでね。お年なのですから。」

 「なにをいう。わははははは。」

 三人は、笑いながら、家路を歩いて行った。そこには幸せな家族の姿があった。

 「先輩。どうするのですか。行ってしまいますよ。」

 「さあ、帰ろうか。容疑者の後藤明子は死んだし、人浦の容疑は、立証できそうもないしな。」

 晴れ晴れとした顔つきの先輩を見ながら後輩が言った。

 「でもどうするのですか。課長になんと報告すればいいのか。」

 「俺たちの仕事は、事件を作ることではなく、事件を解決することだ。事件じゃないものを事件には出来ないだろう。課長には謝っとくさ。事件ではありませんでしたとね。」

 「そうですね。先輩、いい店があるのですが行きませんか。」

 「割り勘だぞ。」

 「ええ、そんな〜〜。」

 「俺も給料前でぴいぴいなんだ。それよりも、俺のツケの聞く店にいくか。おごるぞ。」

 「ハイ行きます。いえ、お供します。」

 「おごるといったら元気になりやがって。さあいくか。」

 「はい。」

 二人の刑事は、あの幸せそうな家族とは反対の方に向かって歩いて行った。

 

  神宮寺家の広大な庭にある露天風呂に 昭恵は変わり行く自然の風景を眺めながら、湯船につかっていた。

 「もう、秋かねえ。」

 「まあ、おばあさまったらセンチな事をおっしゃるのね。」

 「おや、美沙かい。こっちへおいでよ。」

 美沙はそのすばらしいプロポーションを惜しげもなく披露しながら昭恵のところへやって来て、昭恵のそばに静かに入った。

 「信彦とかいったね。どうなんだい。」

 「ダメみたい。わたしって男運がないのかしら。」

 「そんなことはあるものか。帝都小町と呼ばれたおばあちゃんの孫だよ。」

 「ありがとう。おばあさま。」

 昭恵は、美沙を見ながら思った。

 『この子が生まれながらの女だったらこんな苦労はさせないのに・・・』

 5年前、ある事故で当時男だった美沙は、下半身にかなりの損傷を受けた。そして、回復はしたが、男性機能は失われてしまった。そこで、彼の希望で女性へと生まれ変わったのだ。ただし、戸籍はいくら神宮寺でも、どうしようもないので養女の形をとったのだった。

 女としか見えない孫を見つめながら、きっと幸せにしてみせる。と心に誓う昭恵だった。

 

「ねんねんよ〜。おころりよ〜。ねたこはいい子だ。ねんねしな〜。」

 白い壁に囲まれた病室で、若く美しい女は、ベッドの上に座り、その膨れ上がったお腹をいとおしげに摩りながら、子守唄らしき唄を唄っていた。

 「彼の症状はどうです。」

 「珍しい症状ですね。想像妊娠が肉体にあのような影響を与えるなどとは。そんな症例は聞いたことがありませんよ。」

 小さな覗き窓から中を覗いていた二人の白衣の男は、そんな会話をしながら、病室から離れていった。その病室には、『堂本信彦』と書かれていた。

 

 ある秋の静かな午後。めったに人の訪れる事のない人浦家に珍しく訪問者が二人もあった。

 呼び鈴に出て行こうとする老婦人に狂児が言った。

 「いいですよ。お母さんはそこで、秋奈の相手をしていてください。」

 「でも、それでは・・・」

 「いいえ、いいのです。あなたは春奈の母で、秋奈の大好きなおばあちゃんなのですから。」

 狂児は優しく微笑むと玄関に応対に出た。

 「だれだ。こんな日に来たのは・・・」

 「やあ、先生ごきげんよう。奥さんはもうお帰りですか。」

 「まだだ。何しに来た。お前達に話すことは何もないぞ。」

 「いえ、わたし達は春奈さんのお子さんを見に来ただけです。秋奈ちゃんこんにちは。おや、後藤さんもお元気そうで・・」

 玄関で通せんぼをしていた狂児を押しのけて刑事たちが中へ入ってきた。

 「あら、刑事さん。今日はどうされたのですか。」

 「いえ、お嬢さんの赤ちゃんを見にね。どうです。養女の子とは言えかわいいものですか?」

 春奈は、後藤明子の母の養女となり、狂児は、彼女をこの家に引き取っていた。

今日は春奈が赤ん坊と一緒にこの家に帰ってくる日だった。あの事件以来、刑事達は何かにつけてこの家に来ていた。だが、それは、いつも彼らが非番の日に限られていた。

 「刑事さんは、やめてくださいよ。今日も、一個人として遊びに来ているのですから。」

 「え〜と、あなたが、ご主人様と同じ、きょうじさんで、あなたがたしか・・・」

 「乱央(らんお)です。」

 後輩の方の刑事が言った。

 「夏奈(かな)ちゃんはまだですか。」

 「まだだ。」

 「夏奈ちゃんは、人浦さんの娘ですよね。」

 乱央が、口を滑らせた。

 「当たり前だ。なんなら、DNA検査の結果を見せようか。」

 「いいえ、けっこうです。」

 

 狂児はムスッとした顔で乱央を睨んだ。

 不思議な事に(?)春奈のお腹の子は狂児と春奈のDNAとそっくりで、二人の愛の結晶と証明されていた。

 夏の向日葵の咲き誇る病院で生まれたその子が今日、自分の家に帰ってくるのだ。夏の盛りに生まれた夏奈という名の女の子。この新しい家族の到着をみな心待ちにしていた。

 車の止まる音がすると狂児は玄関へと駆け出した。そこには秋の陽射しに照らされすやすやと眠る幼児を優しく胸に抱く母の姿があった。狂児は微笑むと、妻をやさしくエスコートし、春奈は静かにゆっくりと歩きながら、家の中に入ってきた。

幼児を優しく見つめる母の姿にいつしか、みな、微笑んでいた。秋奈が、近づいて、母の擁く赤ん坊を覗き込むのを皮切りに、みな、春奈の周りに集まって、この新しい家族を優しく見つめた。

「いらっしゃい夏奈ちゃん。わたしが、おねえちゃんよ。」

秋の陽射しはいつまでも暖かくこの家を照らしていた。

 

 

 

 

 

 あとがき

 これは、どうでもいいですから、読まなくても作品は楽しんでいただけると思います。

 さて、この「復讐するは○○にあり」ですが、実は、数年前にプロットを考えていたのですが、自分のためだけに書く気にならずお蔵入りしていたものです。

 この作品、人工流産された胎児の復讐譚として考えていました。そこでプレイボーイに捨てられた女性の胎児がその男に復讐する話としたのです。流れ的には今と同じです。ただ、違うのは母親も胎児も死んでしまうところです。だが、それではあまりにも、と思い母親は助ける話にしました。そのとき崖を落ちるというシーンから人浦先生に登場していただいたのです。

 そして、胎児も何とかできないかという思いからこんな結末になってしまいました。あはははは・・・

 それでは、また。